発達障害の治療的カウンセリング

 発達障害に対するアプローチやサポートといえば、現在は療育や訓練が主流です。

 発達障害に心理療法は有効なのでしょうか?

 ユング派の研究者である河合俊雄先生が編者の『発達障害への心理療法的アプローチ』の内容を紹介しながら、考えてみたいと思います。

 

 河合先生は、発達障害の特徴を「主体の欠如」としています。

 発達障害の子どもは自分のことを「私」や「ぼく」とは呼ばず、「〇〇ちゃん」と自分の名前で呼ぶことが多くみられます。これは、相手に呼ばれるままの言葉とも考えられますし、他の××ちゃんや●●ちゃんと並んで自分が存在しているということであるとも考えられます。「私」ということがいえるためには、××ちゃんや●●ちゃんといった並んでいるものとは、別次元に立つ必要があります。

 発達障害の人には常同行動がよくみられますが、主体がないから決まったものや決まった行動に主体を代わらせているのではないかと河合先生はいっています。こだわりや収集癖もよく見られますが、それは自分の外に定点を持とうとしているのだということです。

 山中康裕先生は、自閉症の子どもが特定の物を手放さないことに着目して、それを内的な自己と区別して「外なる自己」と呼んでいます。

 

 主体がないのでさまざまな症状を身に着けることができます。これは「重ね着症候群」と呼ばれ、本物の症状に比べて粘りと必然性がありません。

 例えば、発達障害の強迫症状には、ふつうの強迫症状ではみられるはずの、罪悪感や超自我葛藤のような強迫性格が目立たちません。発達障害のうつは、ふつうのうつではみられるはずの罪悪感や超自我葛藤がみられません。恐怖症でも、例えば、ねずみ恐怖でも目に入らないければ平気であったりします。ふつうの恐怖症では、想像することが症状をつくっているのですが。

 不登校でも、何かのきっかけやアドバイスで行けてしまったりします。このように、症状がちょっとしたきっかけで元に戻るという特徴があるようです。

 

 自分の境界が曖昧であるので、身体の感覚が曖昧で、また、自分の外に出たものである排せつ物や血などに興味を持つことがよくみられます。

 境界がないので、ゲームをいつまでも中止できない大人の発達障害の人がいたります。

 境界がないと異界性もないわけで、宇宙まで飛んでいくような夢がよく報告されます。

 

 ところで、主体というのはそもそも、客体との関係性で成立するものです。

 ソシュールの構造主義言語学が指摘したように、言語というのは常に差異があることで成立しており、他との関係性によって存在しています。発達障害でよく言葉の遅れがみられるのは、この差異のなさによるのではないかと考えられます。

 子どもの人見知りは、母親と母親以外の人とに差異が生じることで起こるものです。発達障害の子は人見知りがないとよく報告されることは、この差異のなさによるのかもしれません。

 ユング心理学には「自我」と「自己」という言葉があります。自我が意識の中心で、自己がこころ全体としての中心を示します。それとはまた別に「プシケー」という言葉もあります。プシケーはこころの全体を示す言葉です。

 もしかしたら、発達障害は、まだ自我などが分離していなく中心もないプシケーの世界にいるのかもしれません。

 

 さて、それでは発達障害の心理療法についてです。

 大人の神経症を対象として始まった心理療法が、子どもを対象としたときに技法の変革が起こり、境界例や精神病を対象にしたときにまた技法の変革が起こりました。ここでまた発達障害を対象にすることで心理療法の技法に変革が起こることが期待されます。

 この本の中では、発達障害に心理療法が確かに成果をあげている例が、いくつも紹介されています。

 発達障害の人は、これまで述べてきた主体のなさという特徴から、心理療法を終わらせることができなかったり、1度も休まずに来続けたりするそうです。それが、休むことができるようになってくると、心理療法が進展したと考えられるわけです。

 河合先生は、発達障害の心理療法のなかに、ユングのいう「結合と分離」のテーマが現れてくるといいます。

 しかし、私は発達障害ではない大人や子どもの心理療法においても、この結合と分離のテーマが現れてくることを経験しています。

 ですので、発達障害の心理療法といっても、その他の症例の心理療法と共通する部分はたくさんある、普遍的なものであると思えます。

 そもそも、宇宙が存在しているのは、物質と反物質という差異が生じたからです。宇宙を認識できる意識が存在するのも、差異があるからこそです。そう考えると、発達障害について考えることは人間やこの世界についての根源的なことを考えることに通じます。

 

 発達障害の支援を考えるときに、私がいつも思うことがあります。

 現在の社会が、発達障害を持っていない人に合わせて作られているので、発達障害を持っている人は不適応を起こします。ですので、発達障害の人を発達障害を持っていない人に近づけることが考えられるわけです。

 しかし、どの社会がふつうかというのは、あくまで相対的なものに過ぎません。将来、発達障害を持っている人の方が大多数になるであろうということをいう研究者もいます。

 ですので、発達障害を持っていない人に近づけようとする支援がほんとうに望ましいものであるのかどうか考えてしまいます。

 イスラーム文化の研究で有名な井筒俊彦は、二重の見ということをいっています。東洋的思惟の重要な特徴は、事物を成立させる相互間の境界をはずして物事を眺め(禅でいう無の境地)、それと同時に境界をはめて物事を眺めることだそうです。はずして見ながらはめて見る、それで実在の真相が始めて顕になると東洋では考えるそうです。

 これを発達障害の心理療法にあてはめて考えると、意識の分割や中心の無いプシケーの境地と、意識が分割してこころの中心が存在するプシケーの境地との、両方を経験できるようになることが、セラピストにとってもクライエントにとっても目指すべき境地であるのかもしれません。